2014年1月23日木曜日

モノとヒトとの関係性  〜クリティカルデザインから 〜


最近、モノとヒトの関係性ということを軸に悶々と考えている。
とりあえずこれらのサイトを列挙する。

  

  

Roomie Summly Fancy Origami…

最近よくみるソーシャルECサイトだ。
実際にこれらを自身も愉しく観ていたのだが、
ある時、なんというか、、、、
お腹いっぱい!!!!ってなりまして。

何故か、について改めて考えてみると、
昨今あまりにも「 デザイン 」されたモノが多すぎるのではないかと。
デザインはデザイナーが使用者の生活を想像し、頭を振り絞って考えて産み出されたもので、機能的であり、効率的であり、有用であり、ユーモアを持つ。

これはこれでいい。俺も大好きだ。

一方、消費者はそのデザインの有用性を文字通り消費することのみを行っており、極端に言うと思考停止している状態なのじゃないかと。
レヴィ=ストロース的にいうと「家畜化された」「栽培種化された」思考になるんじゃなかろうか。

モノには物の怪と言う言葉があるように、本来はもっと精神的な背景に背負ったモノであったり、使い手がもっと創造力を働かせて使う試みがあるんやないか?
と思った次第でございます。

そんなことで、「用いる」という点から「モノ」と「ヒト」について調べたことを体系的にメモ代わりに残していきたい。

初回はクリティカルデザインの視点から。(覚えたて、ということもあり)

概要

日本でクリティカルデザインを率先している牛込陽介氏のサイトから引用する。

未来について考えて議論することを人々に促すためのデザイン。特に、テクノロジーや地政学など、現代社会において複雑化している事象によってつくられるかもしれない未来や、つくられたかもしれないパラレルワールドを描くことが多い。(少なくとも僕は。)クリティカル・デザインの開祖、RCA デザイン・インタラクションズ学科長Anthony Dunne氏が著書「Hertzian Tales」に書いたところによれば、 
クリティカル・デザインは、プロダクトが生活の中で果たす役割についての思い込みや予測や常識に対して、思索的なデザインを用いて異を唱える。そのための手法というよりも考え方やスタンスである。

詳細については以下を参照。

牛込陽介 「クリティカル・デザイン」とは、自分なりのまとめ
http://www.ushi.ws/ja/activitylog-1/

スプツニ子 ドラえもん+ラディカルデザイン=ドラディカル・デザイン!
http://www.cbc-net.com/dots/sputniko/02/ 

What is "Critical" About Critical Design?
https://www.academia.edu/3795919/What_is_Critical_About_Critical_Design

特に最後の参照はDunneとRabyのクリティカルデザイン論にはまだまだ解釈の余地があることを述べた論文であり、授業で苦しみながら読む機会があり、非常に興味深かった。

その内容から、もう少しにクリティカルデザインを掘り下げて、モノとヒトの関係性を探っていく。

「肯定的なデザイン」と「クリティカルデザイン」

DunneとRabyはクリティカルデザインには2つの志向性があり、「肯定的なデザイン」と「クリティカルデザイン」を挙げている。

「肯定的なデザイン」とは、現在を強化するデザイン、つまりは”有用である”ことを突き進めたデザインだ。現在のほとんどのデザインがここに当てはまる。文頭のサイトで紹介した商品のほぼこの「肯定的なデザイン」に含んで良いだろう。一方「クリティカルデザイン」は、現状の状況にデザインでもって批評性をあたえるものとしている。

論文の著者は資本主義の中では「肯定的なデザイン」と「クリティカルデザイン」は2軸に分けることが難しいことも述べている。ファッションの例でいうとヴィヴィアン・ウエストウッドはオートクチュール(特注の仕立て服)に対するカウンター・カルチャーとして誕生した後、商業的な中に押しなべられることがあったりと。そもそも誰がその2つのデザインの違いを決めるんじゃい?という難しさもあるとか。

クリティカルデザインの2つの体系

この論文の著者達はクリティカルデザインが他のデザインと区別する点として”批評性”を挙げており、クリティカルデザインを2つの体系に別けている。

それがCritical theory(批評理論)とmetacriticismだ。

前者は1950年〜80年の間に展開されたニーチェの哲学をベースとした懐疑的に汲み取る方法をモデルとしている。

後者は「何が批評を分類するか?」、「どのように良い批評と悪い批評を区別するのか?」、「批評の社会的役割は?」といった問題に、感性と洞察力を知覚し汲み取るり、向き合う試みという役割を持っている。

要約すると物事の表面の裏側にはどういったことが隠れているのか?ということを示唆している。( 雑過ぎるか )

物事の裏側を読むと聞いて、まず思い出すのはアントニオ猪木と箒の話である。ヒロ・マツダさんが生前に 「猪木という男は、相手がホウキであっても名勝負ができる」 といった言葉の通り、プロレスで観客に創造力を働かせることができるのだ。(もちろんここには批評性はない。いや、俺にはあった。)

話を戻しましょう。

「用いる」ということに眼を向けてみる

正直、存分にクリティカルデザインを理解していないのだが、個人的には、「肯定的なデザイン」と「クリティカルデザイン」の間には大きなグラデーションもあり、別の解釈も多分にあると感じている。

既存のモノでありながらも、用いる人に創造力を膨らませるモノはあるのではないか。

モノを創ること・デザインすることで概念を伝えるのではなく、既にあるモノを使い方・組み合わせ方の提案から、利用者の思考を促進させることはできないか。

編集的だったり、ヒップホップ的思考や、DJ的思考のようなもので、それこそプロレス的思考でもあるのだ。それはレヴィ=ストロースでいう「ブリコラージュ」の概念だったりするのではないか。

松岡正剛 の千夜一夜  レヴィ=ストロース 悲しき熱帯
http://1000ya.isis.ne.jp/0317.html

こんな感じで具体的にどのような手段があるのか、その方法を考えつつ、
次回は別の角度でモノとヒトとの関係性について深めていきたい。





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